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hoshida

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Webデザイナー・フロントエンドエンジニア

ナタデココが好きだ。ナタデココの何が好きかというと、あの噛んでも噛み切れないような弾力が好きである。しかし噛む角度を間違えると、歯ごたえもなくあっさりと噛み切れてしまい、そうなってしまうとナタデココの魅力は半減してしまう。ナタデココの魅力を安定的に得るためには、どの角度からであれば弾力を得られるのかを知る必要がある。やはり知識は人生を豊かにするのだ。私が高校の時の社会科の先生は最初の授業で「おまえら、何のために勉強するかしってるか?それは『知識は魂の栄養』だからだ」といっていたが、それはつまりこのようなナタデココをより安定的に楽しむための知識があればおいしいし体が栄養を吸収する率もあがりそうだということだろう。少し違う気もするが、とにかくナタデココをどの角度で噛めばいいかについて調べてみようと思う。しかし問題がある。今が仕事中だということだ。仕事中に、仕事と一切関係ないナタデココの噛む角度について調査をしてしまってもいいものだろうか。いや、こう考えてはどうだろうか。現代音楽の父ジョン・ケージには、ニューヨーク菌類学会を設立するほどのキノコの専門家という一面がある。貧乏でそこらへんに生えているキノコが食べられるかどうかを調べるうちに、音楽とキノコの間に共通点を見出し、双方を極めることになったのである。それは、丁度『とんかつDJアゲ太郎』の主人公がとんかつ屋とDJを両立しながら、その二つに多くの共通点を見出し双方の技術を向上させていくのと同じように、一見散漫にも見える多方向的な好奇心に有効性があることを証明している。つまり、ナタデココを噛む角度も、いつか何かしらの仕事の役に立つということであり、それを調べるのは問題があるどころか大いに推奨されるべき行為なわけである。ただ、ここでまた別の懸念が生じる。もしかすると、ときに弾力が得られずあっさり噛み切れてしまうことがナタデココの魅力を支えているのではないか、ということである。はずれがあるからこそ、あたりが引き立つという可能性はないだろいうか。大いにあり得る。もしすべてのナタデココを理想の弾力によって享受することができたとしたら、徐々にナタデココに対する要求が大きくなってしまいそうである。もっと弾力を、もっと歯ごたえを、という風に求めるものが大きくなり、次第にはナタデココでは物足りなくなってしまうかもしれない。昔テレビ番組で消しゴムを食べる趣向の人がエスカレートして電車の連結部分のゴムを盗んで食べる事件に発展したというような話を見たことがあるが、弾力のある食感を求めるあまり形が似ている消しゴムを食べるようになってしまい、そこからさらに連結部分のゴムへと進み、最後にはお縄になってしまうかもしれない。逮捕されるのも嫌だし、それ以上にその頃にはナタデココに何の魅力も感じなくなってしまっているであろうことが嫌である。刑務所の中で窓の外の月を眺めながら「ナタデココで満足していたころはよかったな…あの頃に戻りてえよ…」というような郷愁に浸る羽目になるかもしれない。時にははずれのナタデココがあるからこそ、変わらぬあたりのナタデココの弾力をいつまでも新鮮に味わい、楽しむことができるのだろう。だとしたら、その角度を調べてしまうのは野暮だろう。もしくはもう調べてしまって、安定的に弾力を得られるタピオカ好きに転身するかだ。うん、それも悪くない。というかタピオカの方が好きかもしれない。弾力がある上に、ジュースとかに入ってるからナタデココよりも気軽に食べられるし、あのストローから口の中へ飛び込んでくるときの「ジョイフル!」といった感じはナタデココでは味わえない。ナタデココには悪いが、今日からタピオカ好きということにしよう。ただ、タピオカはいったい何でできているのかということが気がかりなので調べてみようと思う。知識は人生を豊かにするし、高校の時の社会科の先生も「タピオカは体の栄養」的なことを言っていた気がする。